カテゴリ:Twinkle Little Star( 10 )




母の歌

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アンが2つになった頃、義母さんが昔からのナーサリーライム(童謡)を集めた分厚い本を贈ってくれました。

プレイグループなどで、子供達と何度も聴いて歌って覚えた定番の歌だけではなくて、
初めて耳にするような古い歌や詩もたくさんあるような本です。

この本の歌を全部知っている義母さんが家に遊びにくるたび、一緒に開いて、
歌ってもらったり、みんなで歌ったりすることがあるのですが、
私が一番好きになった歌は、義母さんのお気にいりの歌でもありました。

「Lavender's blue」という、もとはフォークソングだったらしいのですが、
この歌を聴くといつも懐かしいような、ずっと昔から知っていたような気がするのです。

Lavender's blue, dilly dilly,
Lavender's green
When I am king, dilly dilly,
You shall be queen.

(ラベンターはブルー、ラベンダーはグリーン

私が王になるとき あなたは王女になるでしょう)

Who told you so, dilly dilly,
Who told you so?
'Twas my own heart, dilly dilly,
That told me so.

(誰がそう言ったのでしょう、一体誰が?

私のハートがそうおしえてくれたのです)

Call up your friends, dilly dilly,
Set them to work.
Some to the plough, dilly dilly,
Some to the fork.

(大切な友人を呼び集めて、仕事をさせなさい

鋤を持たせたり、くま手を使って)

Some to the hay, dilly dilly,
Some to cut corn
While you and I, dilly dilly,
Keep ourselves warm.

(干し草を刈らせたり、穀物をとらせたりしなさい

私とあなたが寒さに凍えないよう温まっている間に)

Roses are red, dilly dilly,
Violets are blue
Because you love me, dilly dilly,
I will love you.

(薔薇は赤、スミレはブルー

あなたが私を愛してくれるから、私もあなたをずっと愛していくでしょう)

直訳するとこのような内容で、もっと詩が続くらしいのです。

ディリ、ディリという節が可愛らしくて、アンも大好きな歌。

庭のフレンチラベンダーがまた新たに咲き出したので、目にするたび口ずさんでしまいます。

Beいわく、子供の頃、義母さんもよくこの歌をキッチンなどで手を動かしながら歌っていたとのこと。

私の中でも義母さんのことを想うと、いつもこのメロディーが出てくるので、多分ずっとこれから一生心に残っていく歌となるような気がします。

私の亡き母が、アンのためにある日本のオペラシンガーのCDをプレゼントしてくれたことがありました。オペラなので子供用ではないのですが、日本の童謡なども多く入っているCDだったので、よく家で流すことがありました。

中でも私が個人的に好きになって、以来なぜかこの曲を聴く度私の母を思い出すようになった歌は、アイルランド民謡の「庭の千草」でした。


庭の千草も むしのねも
かれて さびしく なりにけり
ああ しらぎく 嗚呼(ああ) 白菊(しらぎく)
ひとり おくれて さきにけり
露(つゆ)にたわむや 菊の花
しもに おごるや きくの花
ああ あわれあわれ ああ 白菊
人のみさおも かくてこそ


どちらの母を思い出す時、なぜか偶然、庭の植物に関連している歌だったのは、
不思議だけれど納得できる感じがするのです。


母親というのは、いつしも、誰にとってもきっと、どこかメランコリーを呼ぶ存在であるのかもしれません。
その人から生まれてきたという事実は、メランコリーを呼び覚ます。

切っても切れない糸でつながれていたのですから。
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by annebmnursery | 2011-09-25 03:57 | Twinkle Little Star

がんばる、おかあさん。

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子育てはひとそれぞれ。

それぞれの環境と性格があって、やり方、考え方、感じ方、ペースがある。

でもきっと誰しも、母親をやっていると、
「独りになりたい」と切望する瞬間、日が1度はあるはず。

それは、常に何かに追われ続けていることからのフラストレーションから。

思い通りにならないことからのストレスから。

終わりない、先の見えないレースの息切れから。

ただ、自由になりたい渇望から。

身籠る前の、あの軽い身体と時間を、少し夢見る。

そんな贅沢で、でも時に仕方ない望みを、母親ならきっと、誰しも1度はもったことがあると思う。


協力してもらうことに感謝しながら、でも後ろは振り返らずに、
独りになるために、ちょっとだけ時間をもらった。

まずは伸び切った髪を切りに行って、
バスにぼーっとしながら揺られて、店を冷やかして、カフェに入ってまたぼーっとして、
ランチを食べ、コーヒーを飲み、またぼーっと歩いた。

その頃には、十分「フィックス」されていて、
人として、女として、母親として、妻として、また機能できる余裕が出てきた。

でも、この解放感。

久々でなんだか驚いた。

すっかり忘れていた、ひとりの感じ。

着替えやらおむつやら色々とかさばる重いバッグを持つことなく、
バギーを押さずに、手をつながずに、ヒールで早足で歩け、
あれこれ心配したり、あやしたり、気をつかったり、叱ったり、嗜めたりする相手がなく、
見たいものを急かされず、無視せず見れ、
腰や腕を痛めながら、身体を駆使して抱っこしたり、持ったりすることもなく、
汗なんてどっとかくこともなく。

なんなんだ、この解放感。

そんなことを3時間くらいしたら、すっかり治療された。

ふらふら歩いていると、いつもの自分と同じような、おかあさんたちが通り過ぎる。

バギーを押しながら、重い荷物を持ちながら、子供と、子供達のために。

心からエールを彼女たちに送った。
「ほんと、いつもおつかれさまです!」と。



「近くにいるんだけど、もうランチ食べちゃった?」
とBeからメッセージがはいる。

なんで追いかけてくるんだと、半分不満に、でも半分嬉しくてにやけてしまった。

待ち合わせのおもちゃやさんでは、子供達とBeがうるさい店内で騒いでいた。

その空間はもう、私の独りのものではなくて、一気にまた引き戻されるけれど、
なんだかちょっとくすぐったくて、やわらかい。


家に帰って、ふと気がつく。

あれだけ好きなものを色々と見たのに、結局手にして買ったものは子供達のものばかり。
アンの学校用の新しいタイツとか、ウーのTシャツとか、子供達の友達の誕生日プレゼントとか。

かわいい帽子もかぶってみたし、シャドーも試してみたんだけどな。
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by annebmnursery | 2011-08-12 06:23 | Twinkle Little Star

大きくなったらなになりたい?

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小さい頃から大人にかけて、なりたかったもの。

ケーキ屋さん。
ウェイトレス。
歌手。
バレリーナ。
女優。
漫画家。
小説家。
獣医さん。
通訳家。
ジャーナリスト。
途上国現地で救助、援助にあたる仕事。

少女から20代まで、ずっと「何か」になりたくて、なれなくて、もどかしかった。

それは仕事と呼ばれるもの、もしくはステータス、肩書き。
自分にしかできない、自分だからできるそういう何かが、ずっと欲しかった気がします。

そのリストの中には、「おかあさん」は入ってないくて、
いつか結婚して子供は欲しいとどこかで思っていたけれど、
それはまず上のリストを達成してからと、勝手に決めていた。

それが自分らしい生き方だと思っていたし、「おかあさん」になることなんて
誰だってできるし、いつだってできるし、決して格好がいいことでも、
一番大切なことでもないと思っている、そんな自分があったような気もします。
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文字が並ぶだけのリストをごみ箱に投げる日がきて、
ただの「おかあさん」になってみて、
ずっと探していた居心地のいい服、もしくは場所をやっと見つけたかんじ。

向き、不向き、好き、嫌い、思い込みはきっと誰しもなんでもあるけれど。
母業だってきっとそう。

でも、私は時々、母親としてそれらしい仕事、義務、なんでもいいのだけど、、をやっている瞬間、
ただ本能でいる心地よさを感じることがあります。

そこにはなりたかった、なれなかった、
カタチにならなかった、カタチなどはじめからない域を越えて、ただ自然とふってくるもの。

その波にふと揺られている時、完璧なる「仕事」をして生きている時、
ふと感謝がわいてきます。


それはもちろんずっと続くわけではなく、瞬時のことだから、夢のように消えてしまい、
現実は髪の毛をかきむしりたくなるくらい、育児に追われる大変さを味わいながら。

でも、そんな瞬間があるから、私は今日も「おかあさん」していくのです。
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by annebmnursery | 2011-07-31 21:07 | Twinkle Little Star

express


表現すること は、子供にとっては自然体であり、
普通であり、自由であり、手段でもあるような気がする。

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それは言葉で、しぐさで、表情で、身体で、
歌で、踊りで、お絵描きで、遊びで、物で、何でも。

表現する。

何かを表す。

その何かはただの感情や思考という域を越えて、
もっと奥深く根付いているものも含めて。

大人になると、そこに躊躇が出てくるから、
自意識過剰で自然でいられなくなって、
そんなことがどうでもよくなるし、逆に避けようとする。

でも人間って本当はいくつになっても、きっとどこかで表現することを待っている気がする。

埋もれていたり、眠っている何かを呼び起こすチャンスや巡り逢いを、
待っている気がする。


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by annebmnursery | 2011-02-22 06:46 | Twinkle Little Star

プランのない育児プラン

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育児本というものを全く読まないので、
世間一般にどんな育児を理想と掲げられていたり、
賞賛されているのか、無知識な私。

たまに出会う本や誰かの言葉で、心に響くものはあって、
それがその瞬間、子供と向き合っている自分のパワーとなったり、
ヒントになったりすることはあります。

でもやっぱり、何でもきっとそうだけど、
育児ってケースバイケースですから、
人それぞれ、子供それぞれかなと思う。

結局「実感」「実践」しかないのかな、と。

子供の心の発育段階などは、年齢で一括りにできるところもあれば、
できないところも多い。
生まれ持った天性のキャラクターや性質と、育っているまわりの環境は、
本当にカテゴリーなんてできないほど、様々であるはずだから。

だから、本当に育児は「それぞれ」であるのが自然なのだと思います。


子供を育てていて、ここ最近私がなんとなく感じているのは、
年齢の節目と共に、親の私も重要に使う部分を変えていっているんだなということです。

5歳になるアンとつきあっていると、5歳って複雑だなと正直感じます。
それはアンの場合だけかもしれないけれど。

人格が成形される直前の偉大なるもがきと葛藤と混乱が、溢れているのが見えるのです。

多分7歳くらいには、人格、つまりこの世の中でやっていかなくてはならない人格が出来上がっていくのではないかな。

8歳前の子供は、物事を大人のように概念的に理解できないそう。

大人は、「今これをしたらあれがもらえないから、じゃあ今ちょっとひかえておこう」とか、
そういう風にロジカルにぱっと計算して、概念化できるのが、
8歳前の子はできないのが自然なんだそうです。
もっと単純というか、ストレートで、「今これをしたい、でももらえない。全くもらえない!悲劇!」というような感性。

大人の1、2、3ではなくて、子供は1から5に飛んでしまうのが自然。
大人の1、2、3は大人のもの。

7、8歳を過ぎるとだんだん大人になっていくのでしょうね。
反抗期ももちろんありながら。


3歳くらいまでは、とにかくハートで育て、
3歳から7歳くらいまでは、それをベースにして、
今度は口(言葉)で育てる感覚が私はあります。
言葉を一番尽くす時のような。
今ハートから直接出る言霊を、しっかり伝えていくことの大切さ。
今しか響かない、まだスポンジの今だからこそ。

それから多分、想像すると、
7歳からおそらく14歳くらいまでは、
それまでのハート、口をベースにして、今度は目を一番使って育てるかんじ。
言うよりよく見てあげること、見守っていてあげること、
ちょっと距離をもって。

14歳から21歳くらいまでは、、
それらをベースにして、耳を使って聴いてあげること。
子供がひとりとして立っていく時に、ちゃんと片耳ではなく、
両耳で本当に聴いてあげれること。
目をつぶっていても、何も言わなくても、聴けること。

21歳からそれ以降は、おそらく、
今までの基礎だけを頼りに、もう何も使わないような楽な感じになれたら、
母親としてそんな風に自分と子供を自信をもっていられたら、いいな。。

私のちょっとした育児のプラン、糧みたいなのは、
そんなところにあって、
今は本当に口、口、口!口が酸っぱくなるくらい。。

でも今しかないと思うから、ガミガミだけではなく、
心から伝えたいことを伝えれる時に伝えておきたいなと感じます。
まだ素直に聴く耳を持ってくれる年ですからね^^




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by annebmnursery | 2011-02-05 08:27 | Twinkle Little Star

冬の朝にいる怪獣

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イギリスでは、クリスマスがある冬休みは子供達にとって特別な時間です。

アンの学校も3週間近くお休みでしたが、その間アンとウー、きょうだい仲がぐっと深まりました。

ウーがよろよろと独りで立ち歩きするようになったのも、最近のこと。

二本足で立って歩くというのは、大人の私が感じているより、本当に世界が広がることなのだろうなと思います。

ウーの世界が広がり、人格が広がり、年上のアンに少しずつ近づき、追いついてきたのでしょう。
2人遊び、会話、言葉のないコミュニケーションはもちろんのこと、
ハートの中のお互いの位置みたいなのも、どんどん構築されているのが見えます。

それまで半分どこか別の世界に住んでいたような1歳半のウーが5歳のアンに、こっちの世界で初めてどこか追いついたのかも。


喧嘩だって、アンのウーへの嫌がらせや焼きもちも日々たくさんあるけれど、
朝一番の2人遊びは、完全なる2人のファンタジーワールド。

ウーが先に起きて、私と添寝しているとアンが次に起き、すぐに遊びが始まります。
私とBeはベッドの中で、まだ半分夢の中。
2人は同じ寝室で、カーテンも締めたまま、薄暗いライトの中遊びます。
おもちゃを使ったり、本を開いたり、叫んだり、追いかけっこしたり、布団の上に寝転んだり、
ジャンプしたり。

あまりに騒がしいので、制することもしばしあるけれど、
時にふと気がつくと、私たちは30分も子供達を放って眠ってしまっていた、
なんてことも。

そんな時、「何してたの?」と訊いても、
「遊んでたの」。


早朝の二匹の怪獣の世界には、争いも、もめごとも0に等しく、
暗い冬の朝の空を切り裂く、お日様みたいなピュアなエナジーと、
笑いがあふれています。

そこは「マミー」も「ダディー」も存在しないから、
本当に2人だけの島のよう。

でも、完全に2人っきりだから、だからこそきっと、
円満な空間ができるのだろうなと思います。


冬休みが終わって、新学期の朝、
おっぱいをのみながら添寝しているウーの耳元に、起き抜けのアンがささやきました。

「ウー、今日わたしは学校に行ってくるから、小さいわたしのおもちゃで、ちょっと遊んでもいいからね」

ウーの髪を撫でながら、アンはそう優しく言って、頬にキスをしました。

その仕草は、いつもの怪獣シスターとは全くちがくて、
冬休みのおわりを私も心淋しく、そっと、感じました。





新年あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
みなさまにとって、実り多い、佳い一年となりますように!

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by annebmnursery | 2011-01-09 08:37 | Twinkle Little Star

その瞳を

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良い、悪い や
好き、嫌い も
右、左 や
上、下 もないように

自分と 自分以外の全てを隔てるものがないように。

この世に生まれてきたばかりの赤ちゃんの眼が
どこかガラスのように映るのは
まだ 「何」も見ていないから。

「何」かを見始めると同時に人は
形あるものとしての最大限の自由を、
二極端を行ったり来たりしながら
少しずつ失ってしまったり、
自ずとまた見つけたりする旅を続ける。

アンとウーが、初めて眼を開けて、外界を見ていたその光景を、
その瞳を鮮明に覚えています。

その瞳の奥には、言葉で表せない、見えない宇宙がただ広がっているような、
そんな透明度と光がありました。

子供との暮らしを通して、日々初心に戻ることの大切さを感じます。
それは子供に対してだけではなく、もちろん自分に対して、全てに対して。

その瞳が語っていた、言葉なく語っていた物語と哲学と夢と真実をまるごと、
あえて思い起こしてみることで、
また今日という日が、洗い立てのシーツのように真っ白く、
清々しいものになります。



やはり更新が滞ってしまったこのブログ。
それでも今年再開したことで、新たな素敵な出会いも広がりましたし、
また色々なお話ができたこと、嬉しく思っています。
足を運んでくださったみなさん、ありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

みなさんにとって、新年も健やかな1年となりますように。

よいお年をお迎えください。

Wishing you a very happy new year !


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by annebmnursery | 2010-12-29 07:43 | Twinkle Little Star

家族という。。



私には5つ上の姉がいます。
5歳という差は大きくて、小さい時なんてとにかくいじめられていた記憶ばかり。
遊んだり、話したりはしていたけれど、それぞれの社交や行事をこなすことが中心だったような気がします。
私たちの心が一気に近くなったのは、姉が京都の短大へ行くために家を出てから。
姉と手紙や電話をやりとりするようになったのです。
18歳の姉の京都での独り暮らし生活ぶりは、13歳の私には大人の世界でしたが、京都へ遊びに行くと姉のお気に入りの雑貨屋、喫茶店、パン屋、居酒屋、本屋、そしてもちろんお寺や神社に連れて行ってくれました。
私達はそのくらいの年から親友になって、今に至ります。

Beには2つ上の兄がいて、子供時代から2人独特の世界があり、今でも会うと本当に(クレイジーな)子供同士みたい。
家を出てからそれぞれの道を歩み、家庭を持ったとはいえ、きょうだいというより、気のあう古い友人みたいな関係であり続けています。

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きょうだいだからといって、みな心が通い合うわけではないし、
同じ感性を共有できるわけでもないと思います。

それは家族一連にいえることで、バランスのいい輪をもつ家族もあれば、
顔を合わすだけで荒波が起きる家族もあるのが自然でしょう。

家族なのだから、親子なのだから、きょうだいなのだから、
気が合う方が一見楽だし、幸せかもしれない。
喧嘩になるより、笑い合えた方がいいかもしれない。

でも、それ以上の深いつながりというか、
大切な役目みたいなものが、家族というサークルにはあるような気がします。

家族だから、お互いがお互いを一番よく知っているという左側と、反対の、お互いがお互いを一番本当は知らないという右側に極端に分かれることが多いのではないでしょうか。
いずれにせよ、長年の習慣的な価値判断と、感情が邪魔して、本来の真っ白のその人を見れないことがあるようなこと、ないでしょうか。
家族というカテゴリーがあるため、距離があまりに近くなり過ぎてしまったり、距離が逆にあまりに離れてしまったり。
簡単でいて、難しいのが、家族というもの。

あなたは私の子供なのだから、

あなたは私の親なのだから、

あなたは私のきょうだいで、夫で、妻であるのだから..。

そういう観点が特別であり、厄介でもある。

血のつながりがない友人、他人関係だと、
そこにワンクッション、いい距離感を適度に自然に持てるから、楽だったりします。
入り切らない、入らない、そのやり方とタイミングが、もっと簡単。

でも、だからこそ、家族というのは、
その関係から自分が与えられたテーマというか、
どこかで気がつくべきことを示してくれる、
自分の内側への入り口であるような気がします。

どんなに愛していると思っていても、
どんなに嫌悪していても。

そこにつながりがないわけはなく、
そのつながりの先は、常に自分の中にあると思うのです。

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by annebmnursery | 2010-11-02 06:08 | Twinkle Little Star

ひとつ


時々、「はやく2人が寝る時間になってくれないかな..」と思って始まるような日もあります。

トイレで用を足していると、半泣きになりながら這いつくばってウーがやってきて、
足にすがってくる時、
「1分でいいから独りにさせて」と本気で願ってしまうことも。

幼い子供をもつと、ちょっと放っておいてほしい、独りの時間がもてなくて、
息苦しいことってありませんか。
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子供というのはきっと何歳になっても手がかかるものですが、
年齢とともに少しずつ色々なことができるようになって、
親は少しずつだけ楽になっていく。

面倒をみている自分が早く楽になりたいから、
子供に必要以上の期待とプレッシャーをかけてしまっていたり、
傷つけてしまうこともあります。

自分のお腹の中にいた時のひとつだったつながりなんて、
もうすっかり忘れてしまっている。
わずかでも誰もがきっと、一体同一な感覚があったはずなのに、
今は離れることばかりにフォーカスしてしまう。

子供はちがうんだそうです。

その母胎の中で培う、母親と完全にひとつだった感覚をしっかり持って生まれてくる。

それしか知らないで生まれてくるから、ひとつだということしか知らないから、
母親から離れられない。
離れない、のが自然で、当たり前であるのです。

それを親が「もう何歳なんだから、ひとりでできるでしょう」と突き放してばかりで、ルールで縛り付けてしまうから、
子供は怒るし、混乱するし、反発するのでしょう。

人はみんな嫌でも年齢を重ねていき、
社会は人が外に出ていくようにシステム化、デザインされているものだから、
小さいうちから親が子供の自立心とか独立性、社交性ばかりを養おうとするより、
ただ抱きしめてほしい時に抱きしめてあげることが大切な気がします。

泣きながら足にすがりついてくるウーは、
どうして泣いているのかなど理由があるわけでもなく、
ただ離れたくないだけなのでしょう。

そっと抱き上げて顔を見てあげれば、
もうにっこり、涙など止まるのですから。


アンくらいの年齢になると、その振り子の振りが小さくなります。
5つにもなると、どこかで見切りをつけ、
半分意識的に「そういうものなら仕方ない」という風にわかるようになります。
だから幼稚園や学校へ行き、どんどん外の世界で色々な人と場面に直面しても、
なんとか「仕方ない」風にやりこなすことができるようになる。

でもやっぱり、まだひとつだった時の記憶と甘い感覚が残っていて、
時々遊びなどを通しても、戻りたがります。


毎日ただぎゅっとしてあげることや、
ほっぺを触ってあげること、
キスをしてあげること。

ひとつになる瞬間を、いくつになってもつくっていってあげたいと思います。

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by annebmnursery | 2010-10-25 06:06 | Twinkle Little Star

はじまりの唄。


子供との暮らしは、日々涙と笑いと、光と影であふれています。

かつて自分もそうだったように、
剥き出しの、思い切りの、最大限の全てで子供達は在るから、
大人になったと信じていただけで、
実はかなり不自由で不器用で盲目になってしまっていた自分には、
時に受け止められないこともあります。

でも、だからこそ、
その時に気がつくことは、感じることはたくさんあって、
もうひとつ目玉がおでこにくっついたように、視野と視界が広がるのです。

子供だから、大人だからと、
その上下関係はもちろん家族としては必要だけれど、
いつもどこか本来個人の、ひとりひとりの深さを見ていたいと私は思います。

このブログは、自分に向けてのメモ帳のようなもの。

えらそうなことを書いているだけ、自分が行動にうつせているかということでもなく、
だからこそ今大切だなと思ったことを、
自分のために忘れないように書いているようなものです。

といっても、どこかで同じように、毎日子供と向き合って暮らしているたくさんの方がいて、
多かれ少なかれ楽しみも疲れも喜びも苦しみもあるでしょうし、
ここでちょっと励まされたり、励ましてもらえたり、
共感し合えたら、それはとても嬉しいことです。


きっとみな、遠いむかしに一度は唄ったことのある唄。
意味もわからずに口にしていた唄を。
子供に戻らなくても、誰しもが本当は、今のままでまだ同じように唄えるはず。
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by annebmnursery | 2010-10-24 03:21 | Twinkle Little Star

子供との歌、唄、詩。
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